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東京地方裁判所 平成8年(行ウ)158号 判決

原告

東日本旅客鉄道株式会社

右代表者代表取締役

甲山A夫

右訴訟代理人支配人

乙川B雄

右訴訟代理人弁護士

秋山昭八

平井二郎

被告

中央労働委員会

右代表者会長

丙谷C郎

右指定代理人

伊藤敏明外五名

被告補助参加人

国鉄労働組合東日本本部

右代表者執行委員長

丁沢D介

被告補助参加人

国鉄労働組合東京地方本部

右代表者執行委員長

戊野E作

被告補助参加人

国鉄労働組合東京地方本部

外一名

被告補助参加人

国鉄労働組合東京地方本部

外二名

右補助参加人ら訴訟代理人弁護士

大木一俊

太田うるおう

田中徹歩

福田哲夫

高橋信正

一木明

小林正憲

若狭昌稔

右補助参加人ら訴訟復代理人弁護士

宮里邦雄

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、参加によって生じたものを含め、原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告が、中労委平成元年(不再)第七七号事件について平成八年六月一九日付けでした命令を取り消す。

第二  事案の概要

本件は、原告会社の職制が被告補助参加人らの組合員である原告会社の社員(宇都宮自動車営業所勤務)に対してした言動に労働組合法七条三号にいう支配介入に該当する行為があったとして救済命令(初審命令)を維持した被告の命令(再審命令)について、原告会社がこれを違法であると主張してその取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実等

1  当事者等

(一) 原告会社は、昭和六二年四月一日、日本国有鉄道改革法(以下「改革法」という。)及び旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律に基づき、日本国有鉄道(以下「国鉄」という。)が経営していた旅客鉄道事業、旅客自動車運送事業(以下「自動車事業」という。)等のうち、主として東北地方及び関東地方を事業地域とするものを引き継ぐ株式会社(旅客会社)として設立された。

(二) 原告会社には、自動車事業部の所管の下に、棚倉、水戸、土浦、西那須野、烏山、字都宮、長野原、八日市場、館山、東京、小諸、下諏訪、伊那の、一三の自動車営業所が置かれ、自動車営業所の所長は、所業務全般の管理及び運営を、助役は、所長の補佐又は代理を、それぞれ職務内容とするものとされた。

(三) 被告補助参加人国鉄労働組合東日本本部(以下「東日本本部」という。)は、国鉄労働組合(以下「国労」という。)に所属する労働者のうち原告会社に雇用される者等で組織する、国労の下部の労働組合であり、被告補助参加人国鉄労働組合東京地方本部(以下「東京地本」という。)は、国労及び東日本本部に所属する労働者のうち原告会社の東京を中心とする事業地域内に勤務する者等で組織する、国労及び東日本本部の下部の労働組合であり、被告補助参加人国鉄労働組合東京地方本部関東地方自動車支部(以下「支部」という。)は、原告会社の自動車事業部が所管する関東地方及びその周辺の自動車営業所に勤務する労働者等で組織する、東京地本の下部の労働組合であり、被告補助参加人国鉄労働組合東京地方本部関東地方自動車支部宇都宮自動車営業所分会(以下「分会」という。)は、宇都宮自動車営業所に勤務する労働者で組織する、支部の下部の労働組合である。

2  労使関係

(一) 原告会社の設立前において、国鉄が分割・民営化を推進する方針を採ったのに対し、国労は、これに反対することを明らかにし、ストライキ、ワッペン着用闘争、五〇〇〇万署名運動、リボン着用闘争などの運動を展開した。他方、国鉄動力車労働組合(以下「動労」という。)、鉄道労働組合(以下「鉄労」という。)及び全国鉄施設労働組合(以下「全施労」という。)は、国鉄の分割・民営化の方針に賛成し、国鉄と二度にわたって労使共同宣言を結ぶなどして労使協調路線を採った。このような動きの中で、国労からは多数の脱退者が出て、勤労、鉄労、全施労に加入したほか、真国鉄労働組合(以下「真国労」という。)、東日本鉄道産業労働組合(以下「鉄産労」という。)などの労働組合を結成した。その後の昭和六二年二月二日、動労、鉄労、全施労、真国労等は、全日本鉄道労働組合総連合会(以下「鉄道労連」という。)を結成した。

(二) 原告会社の設立以降、原告会社には、主要な労働組合として、東日本本部(国労)、東日本鉄道労働組合(鉄道労連所属の労働組合。以下「東鉄労」という。)及び鉄産労の三つが存在していた。

(三) 国労は、原告会社の設立以降も、国鉄の分割・民営化に対する反対運動を続けたほか、原告会社からの自動車事業の経営の分離についても反対運動を展開し、同年一〇月、運輸省、両院の運輸委員及びその他の国会議員に対する自動車事業の分離等の反対要請書の提出を行ったり、地方議員に対する分離反対署名運動を行ったりなどし、原告会社と対立関係にあった。他方、東鉄労及び鉄産労は、原告会社と労使共同宣言を締結するなどして、労使協調路線を採った。

(四) 原告会社と国労との間のこのような対立関係の下で、両者間で締結されていた同年九月末日を期限とする時間外・休日労働に関する労働基準法三六条所定の協定(以下「三六協定」という。)の再締結のための交渉は、右期限内に協議が整わず、ようやく期限後の同年一〇月九日これが再締結される運びとなった。このため、原告会社と国労間では、同月一日から八日までの八日間にわたり、無協定状態が生じることとなった。

3  宇都宮自動車営業所の状況

(一) 原告会社の発足当時から、宇都宮自動車営業所において、己原F平が所長(以下「己原所長」という。)の、庚崎G吉が助役(以下「庚崎助役」という。)の、各地位にあった。

(二) 宇都宮自動車営業所では、原告会社の発足時以来、分会すなわち国労が社員の過半数を組織しており、その組合員数は、被告補助参加人らが後記6の救済申立てをした時点(昭和六二年一二月三日)で、社員六三名中の四九名に達していた。なお、東鉄労の組合員数は一三名であり、所長は非組合員であった。

4  原告会社の職制の言動

(一) 辛田課長代理の訓示

(1) 原告会社の自動車事業部総務課課長代理辛田H夫(以下「辛田課長代理」という。)は、昭和六二年一一月一二日、同課労働係係長壬岡I雄(以下「壬岡係長」という。)を同道して宇都宮自動車営業所を訪れ、同営業所の事務室に約二五名の社員を集めて訓示をした。

(2) 昭和六二年当時、辛田課長代理は、原告会社の各自動車営業所の要員の運用、管理、社員の給与、任免等の業務を担当していた。

(弁論の全趣旨)

(二) 己原所長の言動

(1) 己原所長は、同月一〇日、翌日上京の予定であった分会組織担当執行委員癸井J郎(以下「癸井」という。)を所長室に呼んで同人と面談し、上京の際に自動車事業部に寄って書類を預かってくるよう依頼した。癸井は、翌日上京し、自動車事業部に寄って書類を受け取り、宇都宮自動車営業所に帰って己原所長にこれを渡した。

(2) 己原所長は、同月一三日、辛田課長代理の訓示を聞いていなかった分会組合員丑木K介を所長室に呼び、寅葉L作助役の立会いの下で同人と面談した。

(3) 己原所長は、同月一六日、所長室において分会組合員卯波M平(以下「卯波」という。)と面談し、同月二八日同人に電話をし、さらに同年一二月八日、同人の運転するバスに同乗して同人と面談した。

(4) 己原所長は、同月二〇日、所長室において、分会副執行委員長辰口N吉(以下「辰口」という。)と面談した。

(5) 原告会社の社員は毎年自己申告書を提出し、その際管理者と面談すべきものとされていたところ、宇都宮営業所において、昭和六二年におけるその提出期限は一一月二五日とされていたが、己原所長は、同年の自己申告書の提出を受けるに当たり、同月中分会組合員巳上O夫と、同月二四日癸井と、同月二六日分会組合員午下P雄(以下「午下」という。)と、同月二七日分会組合員未山Q郎(以下「未山」という。)と、それぞれ面談した。

(6) 己原所長は、同月二八日、検修場において、分会組合員申川R介(以下「申川」という。)及び酉谷S作(以下「酉谷」という。)と面談した。

(三) 庚崎助役の言動

庚崎助役は、同月二六日、自動車事業部から栃木県茂木町所在の自宅へ帰る途中、分会組合員戌沢T平(以下「戌沢」という。)の社宅を訪問して同人と面談し、同月二八日、同人を所長室に呼び出してこれと面談した。

5  自動車事業の経営の分離

(一) 原告会社は、旅客会社からの自動車事業の経営の分離を定める改革法一〇条の規定に基づき、原告会社からの自動車事業の経営の分離を図ることとし、運輸大臣に対して、昭和六二年九月経営の分離が適切である旨の報告を、同年一二月経営の分離の計画の承認申請をそれぞれ行い、その後、運輸大臣の承認を経て、昭和六三年三月、一〇〇パーセント出資の子会社として、関東・上信地区の自動車事業の経営を目的とするジェイアールバス関東株式会社(以下「ジェイアールバス関東」という。)を設立してこれに同地区の自動車事業の営業を譲渡し、原告会社から自動車事業の経営を分離した。同時に、原告会社は、右時点で自動車事業に従事していた原告会社の社員の全員を、そのままジェイアールバス関東に出向させた。原告会社の自動車営業所も、ジェイアールバス関東の自動車営業所としてそのまま同会社に引き継がれ、右自動車営業所には、所長、助役等が、従前どおりの職務内容のものとして配置された。

(甲五、乙二六、弁論の全趣旨)

(二) 昭和六三年三月、原告会社は、ジェイアールバス関東の設立と同時に、己原所長及び庚崎助役をジェイアールバス関東に出向させ、右両名は、引き続き同会社宇都宮自動車営業所の所長ないし助役の地位に就いた。

(弁論の全趣旨)

6  不当労働行為救済申立て

被告補助参加人らは、昭和六二年一二月三日、栃木県地方労働委員会に対し、原告会社を被申立人として救済申立てをし(栃地労委昭和六二年(不)第七号事件)、同委員会は、平成元年六月一六日付けで別紙一のとおりの救済命令を発した。原告会社は、右救済命令を不服として、被告に対し再審査を申し立てたところ(中労委平成元年(不再)第七七号事件)、被告は、平成八年六月一九日付けで右再審査申立てを棄却する旨、別紙二のとおりの命令(以下「本件命令」という。)を発し、同命令書は、同年七月一二日、原告会社に交付された。

二  争点

原告会社の職制の分会の組合員らに対する言動に、右組合員らの国労からの脱退ないし東鉄労への加入を勧奨するなどの、労働組合法七条三号にいう支配介入に該当する行為があったかどうか。

三  当事者の主張の骨子

(原告)

1 自動車事業の経営状況等

(一) 原告会社は、昭和六二年四月の設立に当たり、国鉄が経営していた東北地方及び関東地方における自動車事業を引き継ぎ、事業の運営に当たり自動車事業部を設け、宇都宮自動車営業所を含め、関東、上信地区の一三の自動車営業所を所管させた。

これらの自動車営業所の輸送形態は、鉄道輸送のない地域をバス路線により補うという発足経緯もあり、閑散バス路線が大半を占め、第三種生活路線と呼ばれる乗車密度五人未満の路線を多く抱えており、路線資質としては決して恵まれていない状況であった。その上、近年の自家用自動車の普及、沿線市町村の過疎化等によって、利用旅客の減少は年々深刻化する状況にあった。

(二) 改革法においては、自動車事業は速やかに分離すべきものとされていたため、原告会社においても自動車事業の分離に向けての基盤作りをしていたが、前記のとおり、自動車部門の経営の現状は厳しく、分離後の予測では、黒字になるのは一三の自動車営業所のうち東京自動車営業所の一箇所しかなった。そのため、原告会社は、全社一丸となって収支改善努力に取り組まなければならなかった。

(三) また、原告会社と国労との間の労働協約が同年九月末日をもって失効したため、分離計画に関する経営協議会が開かれず、唯一の交渉の場であった団体交渉等においても、国労は、原告会社が自動車事業所間の要員配置のアンバランスを是正するための転勤や短期間の助勤を行うことについて抗議を繰り返すなど、非協力的な態度を繰り返すのみで、分離について様々な反対運動を行い、今後の経営について前向きに話し合う姿勢が見られなかった。このため、原告会社の社員に対して分離の内容やその後の経営見通しなどについて正確な情報が伝わらず、これを求める声も各地にあった。

原告会社は、自動車部門の社員に対して、現状を認識してもらうため、社内報である「JRひがし」昭和六二年一一月号(甲五)にバス事業の厳しい現状や分離計画の概要を掲載して、周知徹底を図るとともに、自動車事業部の管理職が現場へ出向く際にはなるべく現場社員にそのような経営の現状について話をする機会を設けるようにした。

2 職場規律の確立と親方日の丸意識の払拭

(一) 国鉄の経営が破たんするに至った原因は、直接には財政の破たんにあったが、それとともに職員の企業意識の欠如にあったとされていた。この企業意識の欠如、換言すれば従来の親方日の丸意識を払拭させる必要性がつとに強調され、また職場の乱れも指摘されていた。そこで、民営企業として発足した原告会社にあっては、その社員に対し、従来の親方日の丸意識を払拭して民営企業としてのサービス精神、コスト意識を徹底した企業精神を発揮するよう、その意識改革の必要性を強調するところとなった。

(二) しかし、国労は、新会社(原告会社)発足の後においても、改革法に基づいた国鉄の分割・民営化に反対であるとの主張の下に、社員に対し意識改革を求める原告会社の取組みに関し、昭和六二年の国労大会において活動方針として、「企業意識の払拭」を掲げて対決色を強め、「意識改革=国労脱退である」とする誤った宣伝をするとともに、旧国鉄勤務当時におけると同様の意識のままで旧態依然たる勤務状態で就業すべきことが当然であるとして抵抗するよう、傘下の組合員を指導していた状況もあった。

(三) 原告会社は、発足以来社員に対し親方日の丸意識の改革を求め、企業精神に基づいて業務に従事することを求めてきた。また、各職場においても、絶えず親方日の丸意識という古い看板を捨てて企業意識に立った行動を求めてきた。また、厳しい経営環境の下にあった自動車事業に携わる者は、社員一同が一体となって新生の自動車事業に立ち向かっていくことが肝要であるとされ、ことある毎に、またあらゆる場所で宣伝され、その徹底が図られていた。

以上のことは、宇都宮自動車営業所についてもその例外ではなく、原告会社は、国鉄時代に職員の間に深く浸透した古い看板、すなわち親方日の丸意識を捨てて真の企業意識を身につけるよう、強調してきた。

3 三六協定の失効

(一) 被告は、当時三六協定の失効のおそれがあり、それが辛田課長代理の発言の動機であったかの如く認定しているが、そうではない。

自動車事業は、旅客鉄道事業以上に地元との密着性が極めて強い事業であり、例えば、貸切バスの運行を見ると、地元の小学校の遠足や会社の職場旅行、町内会の旅行会等に利用されるケースが大半であり、しかも、それらの貸切バスが自動車営業所に勤務する社員の友人や知人を通じて申し込まれるケースが多く、社員が折角集めた貸切バスの運行に支障を及ぼす可能性がある三六協定の失効を社員自身が望んでいないということは、自動車部門においては労使共通の認識であり、国鉄時代から、鉄道部門で三六協定が失効した時期においても自動車部門では締結されていたという経緯もあったことから、原告会社としては特段心配していなかった。

さらに、宇都宮自動車営業所においては、当時若干の過員もあって、三六協定の失効によって直ちに路線バスの運行に支障が生ずるというものではなかった。

(二) 本件当時、労働基準法で定める一週間の法定労働時間は四八時間であった。原告会社におけるバス乗務員の一週平均労働時間は、週四〇時間とされていたが、日々の具体的な始業・終業時間、労働時間は指定した行路表に定めるところとされ、貸切便や臨時便の運行についても、週の労働時間の範囲内で職務の指定をしていた。

したがって、三六協定が失効しても(失効していた期間は昭和六二年一〇月一日から同月八日までの八日間に過ぎなかった。)、法定労働時間数との間にゆとりがあり、行路表の定め方を工夫すれば三六協定がなくても対応が可能であった。

(三) 当時、原告会社において、三六協定が失効した自動車事業所は、宇都宮自動車営業所を含め五か所あり、議論が平行線をたどっていたので、原告会社は最悪の場合の態勢は組んであった。また、隣接する三か所の自動車営業所と応援し合っていたので、臨機応変の対応も十分に採ることができた。

(四) したがって、栃木県内で三六協定が失効しても、宇都宮自動車営業所においては、それによる支障がほとんどなかったのが実情であったから、三六協定が失効することをもって、国労を嫌悪することなどはあり得ない。

(五) 被告の発した本件命令は、前述したようなバス部門に従事している社員の感情等を全く考慮せず、ただ単に鉄道部門と連動して一時的に三六協定が失効した事実のみをもって、直ちに、原告会社が三六協定失効の不安をもたらす国労を困った存在と考えていたと安易に推認しているものであって、事実誤認も甚だしく、到底是認できないものである。

4 宇都宮自動車営業所の状況

(一) 宇都宮自動車営業所においても、自動車事業の分離を控え、社員はその内容の如何、新会社の将来に関心を持っていた。また、分離後の経営の安定を図るための増収計画が問題とされていた。

当時の宇都宮自動車営業所の収入は赤字であり、黒字の東京自動車営業所とは比較にならない程の厳しい状況であった。しかし、宇都宮は他に比べて人口が比較的多い地区で、高速道路に近く観光地にも比較的近いという立地条件であり、また関連事業の拡大など社員の努力次第では黒字営業所になる可能性が高いものと期待されていた。

己原所長も、がんばれば黒字になるということで、社員に奮起を促していたが、職場規律の是正も遅れている中で、収支改善もはかどらなかった。

(二) 宇都宮自動車営業所においても、国鉄は、職場規律の総点検を行なうとともに、現場協議制度の見直し、組合との便宜供与に関する過去の悪慣行の是正等に取り組んでいたが、それにもかかわらず原告会社の発足直前まで、いわゆる悪慣行と呼ばれるヤミ行為が常態化していた。

国労は、昭和六二年二月に己原所長が国鉄宇都宮自動車営業所に着任した際も、既に廃止されていた現場協議制を実質上従来どおり行なうよう申し入れていた。また、既に撤去されていなければならない組合掲示板も営業所入口横・車両室・乗務員室・階段踊り場等に設置されていて、総点検以前の状況と何ら変わっていなかった。また、二階会議室は国労が勝手に使用し、押入れは国労の倉庫となっており、期限を切って撤去と明渡しを求めたが、なかなか進まない状況であった。

(三) 己原所長は、職場規律の是正や意識改革のため、点呼の時の立会い、乗務員休憩室での雑談、所長室等での個人的な話、あるいは回送中のバス中など、あらゆる機会をとらえて営業所社員が一丸となって取り組むことが必要などと話していた。

(四) 本件命令は、こうした己原所長の職場規律の是正に対する国労組合員の反発心が背景となり、旧態依然とした親方日の丸意識の払拭のために、己原所長が機会ある毎に社員に対して行なった会話の内容を著しく歪曲して判断しており、到底是認できないものである。このように、各地において管理者が職場規律の改善に向けて努力したが、既得権意識の強い職場であればあるほど(特に、国労組合員は、既得権意識が強い傾向にあった。)、また、是正を厳しく行なえば行なうほど、これに対する反発が強く、新しい民間会社としての企業秩序の回復を図る行為を組合の既得権に対する侵害とみなし、不当労働行為として救済申立てがされている。本件の宇都宮自動車営業所もその例外ではない。

5 本件命令で不当労働行為とされた言動について

(一) 人の言動の意味が問題とされたときに、右に述べたような、その言動のあった当時の状況を検討すべきことはいうまでもない。当時、宇都宮自動車営業所では、国鉄の分割・民営化の直後で、しかも自動車事業の分離という課題を抱え、親方日の丸などといわれる古い意識を捨てて、民営企業として社員一丸となって収益の改善に取り組まなければならなかったのであり、また、己原所長その他の管理者も、その実現のため努力するとともに、社員に協力を呼び掛けていた。

(二) 辛田課長代理の訓示

(1) 被告は、辛田課長代理は三六協定を切るような組合では困るとの認識を持っていたところ、壬岡係長を同道して宇都宮自動車営業所において約二五名の社員を集め自動車事業の経営状況、分離について話をした際、「不当労働行為というふうに聞かれる社員がいるかもしれませんが」と前置きして、日本航空の例を挙げながら、「労使協調でバス会社を守って行くんだ、そのために一企業一組合が望ましい、早く看板を外しなさい」などと述べ、もって東鉄労一本化が望ましいとして国労からの脱退を推奨したと認定している。

(2) しかし、辛田課長代理が壬岡係長を同道して宇都宮自動車営業所に行った際、社員が関心を抱いていた自動車事業の経営状況、分離問題について話をしたことは事実であるが、同人は三六協定の失効について危機感を抱いていたこともなく、また、国労からの脱退勧奨とされるような発言をしたことはない。

(3) 辛田課長代理は、国鉄の分割・民営化により、原告会社が民間会社として発足した以上、国鉄時代に存していた親方日の丸意識を払拭することが必要なところ、更に、改革法の定めにより、運輸大臣に対し自動車事業の経営を分離する旨の報告がされた折なので、この点及びその将来の見通しについての社員の関心が高く、現場の各営業所において混乱を来すおそれもあるので、翌年四月以降の分離について話したのである。そして、自動車事業の改善・安定のためには古い国鉄意識の看板を捨て、新しいバス会社を労使一体となって守っていかなければならない旨を話したのである。

(4) 被告の事実認定では、「こういうことを言うと不当労働行為というふうに聞かれる社員もいるかも知れませんが」というような趣旨のことを前置きして述べたとされているが、これは組合の話をすると、支配介入とかいう話が出てくるので、不当労働行為と勘違いするといけないということでそういう言葉で話しただけである。そして、最近読んだ雑誌に記載されていた日本航空の例を引いて、現場の組合間で対立することなく労使協調で会社を守って行くのがよいし、また、それには一企業一組合が理想であろう旨を付言したのである。

(5) また、右の訓示中で「会社の企業の理想として一企業一組合が望ましいということ」を述べているが、これは、補助参加人らが主張するような、原告会社の発足当時の社長亥野U吉(以下「亥野社長」という。)の発言を受けたというものでも、原告会社の公文書的なものを引用したものでもなく、企業のあるべき姿を一企業一組合というように言ったものに過ぎない。

(6) また、「看板を下ろせ」と言ったとされる点も、親方日の丸意識の払拭を求める趣旨で述べただけである。

(7) 右訓示に対し、国労の組合員から、おかしいという話や抗議等は一度も受けていない。

(8) したがって、その発言は、あくまで自動車事業の現況と将来を述べ、社員一丸となってこれを発展させていこうとする趣旨であり、国労からの脱退を勧奨したものでないことは明らかである。本件命令は、殊更、発言の趣旨を異なるものとしてとらえ、事実を歪曲ないしは誤認したものである。

(三) 己原所長の言動

(1) 癸井に対する働きかけについて

ア 被告は、昭和六二年一一月一〇日、己原所長が癸井を所長室に呼んで、東京へ行った際、帰りに自動車事業部に寄って書類を持ってくるよう頼むとともに、「向こうの組合の方で大変優秀な方に会ってみる気はないか」と述べた、癸井は支部執行委員長甲川V夫(以下「甲川委員長」という。)や自動車事業部の壬岡係長から紹介された東鉄労の組織部長乙谷W雄(以下「乙谷」という。)に会った、癸井は、その日のうちに宇都宮自動車営業所に帰り、己原所長に書類を渡した、その際、乙谷の話も出て、己原所長は「大変優秀な方でしょう」と述べた、また、甲川委員長の会見についての話も出たが、己原所長は最後に、「鉄産労ではだめだよ」と述べた旨認定した上で、己原所長の行為は、癸井を脱退させるためにされたものと解するとしている。また、同月二四日に、己原所長が面談の際に癸井に対し、手に「白」という字を書いて、「こうならないか」と述べた旨認定して、国労からの脱退を示唆した不当労働行為であるとする。

イ しかし、癸井が、同月一〇日、東京自動車営業所へ行ったのは、甲川委員長の呼びかけに応じて自らの勤務日でない日に自らの意思で、その組合活動としてしたものである。

宇都宮自動車営業所では、所員が何かの用で東京へ行く機会に、自動車事業部から書類を預かって来ることがよくあったところ、癸井の上京をたまたま知った己原所長が同人に対し、帰路、自動車事業部に寄って書類を預かってくれるよう頼んだだけであって、同人に他の者との面会を指示したことはない。壬岡係長も書類を癸井に預けただけで、同人に乙谷を紹介したこともない。己原所長は乙谷とは面識もないので、癸井に対し乙谷のことを優秀な人だなどと話すはずもない。

また、己原所長が面談の際に癸井に対し、国労から脱退するよう勧奨した事実もない。

(2) 丑木K介に対する発言について

ア 被告は、辛田課長代理の訓示の内容は、東鉄労一本化を目指したものであることを前提として、同月一三日、己原所長が辛田の訓示を聞いていなかった丑木K介に対し、所長室で寅葉L作助役の立会いの下で右訓示の話をし、「今の組合で幾ら真面目に働いてもだめだよ」等と脱退を迫った旨認定している。

イ しかし、己原所長は寅葉L作助役の立会いの下で丑木K介に対し話をしたことはあるが、前日の辛田課長代理の訓示の内容がバス会社の分離に関するもので、社員一丸となってその実現を図ろうとするところから、それが従業員に関心が深い業務に関するものであることを考え、その趣旨の徹底のための話をしたもので、脱退勧奨などとされる内容のものではない。

すなわち、己原所長は、自動車事業の経営は厳しいが、それに打ちかって分離による新しい経営形態を確立していかなければならない状態であることの徹底を図るため、辛田課長代理が訓示した際不在であった丑木K介に対し、その訓示内容の趣旨を伝えたのである。

(3) 卯波に対する発言について

ア 被告は、己原所長が卯波に対し所長室で話をし、また同人に電話して「東鉄労に入った方がいい」、「国労の旗を降ろすよう皆に説得してくれ」と述べ、また、卯波の運転するバスに乗車して「電話したとだれとだれに言ったのか」、「私の名前を出したことはまずい」、「あなたは証人として呼び出されるけど大丈夫か」などと述べ、脱退を勧奨した旨認定している。

イ しかし、己原所長が卯波の運転するバスに乗車した際、右認定のような会話がされた事実はない。また、己原所長は卯波に対し所長室で話をし、あるいは電話を掛けたこともあるが、それは当時従業員の最大関心事である自動車事業部の現状やそれに対する取り組み方についてであって、労働組合に関するものではない。

(4) 巳上O夫に対する発言について

ア 被告は、己原所長が自己申告書についての面談の際、巳上O夫に対し組合を一本にしたい、国労を辞めて東鉄労に入れなどと話し、国労脱退、東鉄労加入を示唆した旨認定している。

イ しかし、己原所長は面談の際、自動車事業部の置かれている状況を改善し、その分離対策を進めていくには、社員が努力して一丸となって取り組んでいく必要がある旨を求めていたのであって、国労からの脱退や東鉄労への一本化の話をしたことはない。

(5) 辰口に対する発言について

ア 被告は、己原所長が所長室において辰口に対し、分会執行委員会での国労を辞めたいとの発言を踏まえ、その方向でまとめてくれと求めた旨認定している。

イ しかし、己原所長は所長室において辰口と話をしたことはあるが、それは、組合脱退問題についてではなく、宇都宮自動車営業所など自動車事業部の現状についての話であって、皆で協力して新しいバス事業の形態を作って行こうとするところに力点を置いた話である。

(6) 午下に対する発言について

ア 被告は、己原所長が自己申告書についての面談の際、午下に対し、「国労では先が見えない」「首はないが転勤はある」などと述べ、国労脱退を示唆した旨認定している。

イ しかし、己原所長がそのような発言をしたことは全くない。午下から社員の転勤についての話が出たので、己原所長は自動車事業部内には部署による人員の過不足があり、「需給調整のため今後とも転勤はあり得る」、あるいは「午下さんは比較的若い社員で能力的にも有能な方ですので、若いうちに部内いろんな営業所を経験してもらいたい」旨の話をしただけで、国労からの脱退を示唆したものではない。

(7) 未山に対する発言について

ア 被告は、己原所長が自己申告書についての面談の際、国労が不都合な組合であり脱退を勧める発言をして脱退を示唆した旨認定している。

イ しかし、己原所長は当時、面談などの機会をとらえ、社員に対し自動車事業部の置かれている現状の話をし、その経営分離についての理解を求め、前向きに取組むことを求めていたのである。未山に対する発言もそれにとどまるものであって、国労からの脱退を示唆する態のものではない。

(8) 申川及び酉谷に対する発言について

ア 被告は、己原所長が検修場において、申川及び酉谷に対し「年配だから考えてもいいんじゃないか」などと述べ、国労脱退、東鉄労加入を示唆した旨認定している。

イ しかし、己原所長は、絶えずあらゆる機会を求めて、宇都宮自動車営業所の経営改善を図るため、皆が協力し一丸となって対処して欲しい旨の発言をしていたのである。この申川や酉谷に対する発言もその一つであって、国労脱退等を示唆するものではない。

(四) 庚崎助役の言動

(1) 被告は、庚崎助役が戌沢に対し、その社宅に立寄り、あるいは所長室において、「国労にいてはだめだ」、「脱退届けを預けなさい」などと述べ、国労からの脱退を強要した旨認定している。

(2) しかし、宇都宮自動車営業所では、当時、茂木派出所から本所へ一名転勤させる必要があり、庚崎助役はそれには戌沢が最適であると考えて、本人の意向を確かめるとともに、その旨説得していたのであり、国労からの脱退を求めるような発言は全くしていない。

(被告)

本件命令は、本件命令書記載の理由によって発せられた適法なものであって、被告の認定及び判断に誤りはない。

(被告補助参加人ら)

被告補助参加人らからの不当労働行為救済申立てを認容した栃木県地方労働委員会の初審命令も、またそれに対する原告会社からの再審査申立てを棄却した被告の本件命令のいずれにも誤りはないから、維持されるべきである。理由は以下の通りである。

1 原告会社の労務政策等

(一) 被告補助参加人らが、原告会社に労働組合法七条三号所定の不当労働行為があったとする時期は、昭和六二年一一月から一二月にかけてのことである。この時期は、国鉄の分割・民営化の直後で、かつ、翌年四月の自動車事業の経営分離の直前に相当する。当時は、当然国鉄の分割・民営化を契機とする労使対立があったし、また自動車事業の分離をめぐる労使紛争が生じていた。

(二) 国鉄の分割・民営化の直前には、国鉄当局は、「国民の足を守り、組合員の雇用を確保する」立場から国鉄の分割・民営化に反対する国労に対し、雇用安定協約の破棄を通告したり、再締結の拒否をするなどして国労組合員の雇用不安をあおり、昭和六一年七月以降設置した人材活用センターでは、国労組合員を本来の業務から外す等、組合員に対する不利益取扱いや支配介入等の様々な不当労働行為を行った。また、原告会社が他労組と結んだ労使共同宣言や第二次労使共同宣言さえも、国労つぶしをねらったものであった。

さらに、原告会社の発足時には、国鉄の分割・民営化に賛成した他労組組合員をほぼ全員採用しながら、多くの国労組合員を採用しないという採用差別をし、また職場の配属に当たっては、国労組合員を本来業務から外して関連業務に就労させるなどの不利益取扱いをした。

(三) 原告会社は、従来国鉄当局が採ってきた国労組合員に対する不利益取扱い、国労に対する支配介入等によって国労の弱体化を図る国労つぶしの労務政策を継続した。

原告会社が国鉄時代と同様の労務政策を継続するとの意思は、(1) 昭和六二年五月二五日開催の「経営計画の考え方等説明会」における常務取締役甲山A夫(現社長)の発言、(2) 同年六月二〇日東鉄労高崎地方本部における同人の発言、(3) 同年八月六日東鉄労第二回定期大会における亥野社長(現会長)のあいさつでの「今なお民営分割反対を叫んでいる時代錯誤の組合もあります。」、「このような人たちがまだ残っているということは会社の将来にとって非常に残念なことですが、この人たちはいわば迷える子羊だと思います。」、「名実共に東鉄労が一企業一組合になるようご援助いただくことを期待し……」との発言、(4) 昭和六三年二月一〇日付け公益企業レポートにおける乙川B雄人事部長の発言記事など、会社首脳の発言内容から明らかである。

2 一企業一組合の意味

(一) 亥野社長の東鉄労定期大会における発言以降、「一企業一組合」という言葉が、国労つぶしのスローガンとして、現業職場で管理者から用いられるようになった。亥野社長があいさつをした東鉄労の前記大会では「会社つぶしにひた走る国労等を壊滅し、会社を愛する仲間の結集を図り、一企業一組合を実現する。社会に誇れる立派な会社と日本一の労働組合作りを目指して奮闘するものである。」とする大会宣言が採択されている。この「一企業一組合」が国労つぶしのスローガンであることは間違いない。

(二) その後も、乙川B雄人事部長は、前記公益企業レポートで、国労を攻撃した後「東鉄労を基軸とした「一企業一組合」を少しでも早く達成して欲しいものと期待しています。」と述べ、昭和六三年一一月一五日付け公益企業レポートで、甲山A夫常務取締役が「私どもとしては一緒にやっていくために一企業一組合が望ましいと思いますから、会社の願いは最初から少しも変わりません。」と語っている。

会社内に複数の労働組合が併存している場合に、社長、常務取締役、人事部長といった会社首脳がこのように「一企業一組合」を頻繁に唱えている場合、それは必然的に労使協調路線を採る労働組合への一本化、つまり一企業一組合=東鉄労一本化を意味し、逆に会社の労務政策に批判的な労働組合(国労)を排除し組合間差別を行う意思を明白にするものである。何度も繰り返されていることや、職場における国労つぶしのマニュアルとでもいうべき文書(乙一一四)に「一企業一組合という『大義名分』を貫いてもらいたいと思います。」と記載されていることからも、それが企業運営の理想として掲げられたものではなく国労つぶしのスローガンであることが分かる。国労をつぶそうと露骨にいえない場合に正に「大義名分」(やましくない口実)として「一企業一組合」を用いたのである。

そして、民営化後の自動車事業の営業所長会議で、「一企業一組合が望ましい。」という話題が出されてもいる。

(三) 本件で問題とされている辛田課長代理の「一企業一組合」という言葉も、右の流れの中で、国労つぶし=脱退勧奨・強要のスローガンとして用いられたものと理解すべきである。

3 支部での民営化以前の状況

(一) 支部は、昭和六一年四月当時、分会に一〇三八名の組合員を有し、組合員有資格者の一〇〇パーセントを組織していた。そのため、翌年の分割・民営化を控え、国鉄当局から、執ような国労攻撃を受けることとなった。国労組合員に対し雇用不安をあおったり、また直接国労つぶしが当局の関与の下で行われることにより、昭和六二年四月の分割・民営化時には、国労組合員は三六四名となり、組織率も40.1パーセントとなってしまった。

(二) 原告会社における自動車事業の職場で、当局ぐるみの不当労働行為がされたことは昭和六一年九月四日開催された関東地方自動車局管内の営業所長会議のメモ(乙一〇八)から裏付けることができる。

4 三六協定と国労攻撃

国労と原告会社との間で締結された三六協定は、昭和六二年九月三〇日をもって失効し、同年一〇月九日に再締結されはしたが、八日間無締結状態に陥った。この三六協定の無締結状態が発生したことは、自動車事業の関係者に重大かつ深刻な影響を与えた。

もともと自動車事業は、鉄道輸送のない地域をバス路線により補おうとする発足経緯もあり、閑散バス路線が多く、第三種生活路線と呼ばれる乗車密度五人未満の路線を多く抱えていた。したがって、自動車事業の分離、そして発足すべき自動車会社の経営基盤の確立のためには、不採算路線の休・廃止、運行便の削減などの効率化を図るとともに、旅客の需要の見込まれる高速道路への乗り入れ、貸し切りバス運行の拡大などを目指さなければならなかった。そのためには、弾力的かつ柔軟に乗務配置ができる必要があり、三六協定の締結が是非とも必要であった。

このような事情から、必然的に、原告会社の国労攻撃は、当時、国労組合員が過半数を占める宇都宮、烏山、長野原、小諸、東京の各自動車営業所に集中されて行なわれた。

5 分会に対する攻撃

(一) 従来組織率一〇〇パーセントを誇っていた支部は、国鉄の分割・民営化の過程での国鉄当局等からの攻撃のため、昭和六二年四月の時点で、四〇パーセントの組織率となってしまった。しかし、分会は、分会役員や組合員の努力の結果、八〇パーセント以上の組織率を維持し、支部内でも最も団結力のある組織上も重要な分会となっていた。

(二) 原告会社の分会に対する攻撃としては、次のような事実があった。

(1) 国鉄の分割・民営化の直前に宇都宮自動車営業所に赴任してきた己原所長は、分会と自動車営業所管理者との間にあった従来の慣行をすべて否定し、威圧的な管理体制を強化した。

(2) また、己原所長は、国労組合員に対し露骨な差別攻撃を加えてきた。国労組合員のみを対象としたボーナスカット、国労組合員であることを理由とする事故についての差別的取扱いなどである。

これらは、管理者の主観的でほしいままな判断のみを根拠とする差別であり、その真のねらいは、国労の組合員であるがゆえに、ささいな事実を殊更に採り上げ、それを曲解し、これを理由に差別的取扱いをすることによって、国労組合員の団結を破壊することにあった。

(3) さらに、原告会社は、国労組合員を対象とする配転攻撃を加えてきた。

宇都宮自動車営業所では、分会執行委員長戊原C作(以下「戊原委員長」という。)が東京自動車営業所に配転された。分会の中心人物である同委員長を一般組合員から切り離すことによって、組合の組織率を低下させ、運動を低下させ分会の国労組織を破壊することを、当局は意図したのである。

(三) 分会に対する辛田課長代理らの脱退勧奨、強要等の行為は、昭和六二年一一月一〇日ころから開始された。

この時期は、原告会社によって、自動車部門の分離がかなり具体化し始めており、バス会社の設立と経営基礎の確立という名目の下に、国労が過半数を握っている営業所をなくすこと=労使協調路線を採る東鉄労に一本化することが、自動車事業の分離までに完了しなければならない切迫した課題となっていた。

また、労働者にとっても、自動車事業の分離に伴い、自動車事業から外されるのではないか、あるいは、強制配転されるのではないかとの不安を強く持っている状況にあった。特に、分会では、戊原委員長が東京自動車営業所に配転されたことにより、役員はもちろん、一般組合員にも動揺が激しかった時期である。

分会の中心であった戊原委員長を強制配転した原告会社は、分会の動揺を見越して、「一企業一組合=東鉄労一本化」の名の下に、まず、辛田課長代理が営業所長を初めとする現場管理者に国労攻撃を指示するとともに、営業所員全員に脱退勧奨を行い、さらに現場管理者が国労組合員個々人に脱退強要を行ったのである。

6 辛田課長代理の発言の内容

(一) 辛田課長代理は、昭和六二年一一月当時、管内自動車営業所の要員の運用、管理、職員の任免等の仕事も行っており、自動車部門の人事運営実務の中心者であった。

(二) 辛田課長代理は、同月一二日の訓示の中で、日本航空の例を引きながら「一企業一組合」が望ましいとの発言をしている。

「一企業一組合」という言葉が、当時、国労つぶしのスローガンとして用いられていたことは、既に述べたとおりである。辛田課長代理は、「一企業一組合」の施策が国労を敵視し、国労に対する差別攻撃、組織的脱退攻撃を加えることになることを十分認識しながら、あえてこのような発言をしている。「不当労働行為だけれども」あるいは「不当労働行為ととられる社員もいるかも知れませんが」と前置きをして発言していることは、この明確な証拠である。

(三) 辛田課長代理は、さらに、「早く看板を外してください。」と発言している。

分会の組合員の前で、原告会社の経営基盤や企業意識について話をし、「不当労働行為ととられる社員もいるかも知れませんが」と前置きをして「一企業一組合=東鉄労一本化」が望ましいと発言した上で、「早く看板を外してください。」と続けている。

この発言が、「国労の看板を外せ」との意味であることは、右の発言の流れからしてだれの目にも明らかである。直接「国労」という名前を出したかどうかなど全く関係ない。辛田課長代理は、聞き手である国労組合員に対して、明確に国労からの脱退を迫っている。

(四) 辛田課長代理は、さらに、「真剣に自動車のことを考えているのは東鉄労だ。」、「赤字になっても東鉄労に一本化していれば親会社が融資あるいは面倒を見てくれる。」、「東鉄労とは話をするが、国労とは話はできない。」などと発言し、国労を攻撃し、東鉄労へ加入すべきことを示唆している。多くの国労組合員が、バス会社の分離に向けての人員配置が間近にあることを認識し、自動車部門から外されるのではないか、強制配転されるのではないかという不安を持っていた時期における辛田課長代理のこれらの発言は、「国労に残れば差別する。」との脅迫にほかならなかった。

7 己原所長の脱退強要等

(一) 癸井に対する昭和六二年一一月一一日の脱退工作

(1) 前記のとおり、支部管内では、国鉄の分割・民営化の前後において様々な形で国労つぶしがされてきた。その結果、このような攻撃に耐えかねて、甲川委員長は同月二五日の臨時支部大会において脱退を表明し、また当時の支部東京自動車営業所分会執行委員長己崎D平も同月三〇日に国労脱退を表明するなど組合幹部の国労脱退が相次いだ。

甲川委員長は同月二五日の正式脱退以前に、各分会の主だった活動家に対し、今後どう対応していくかについての協力を要請し、分会では、庚田E吉(支部副執行委員長)、辰口、癸井の三名がその要請を受けた。このことを知った己原所長は、勤務の予定があった庚田E吉に対して、「勤務手配するから庚田君も行ってくれ。」と、甲川委員長の呼びかけに応じて東京へ行くように勧めた。結局、分会では、甲川委員長の呼びかけに答えて、癸井が同月一〇日東京の五反田駅に行くことになった。

これに対して、己原所長は、同月一〇日に癸井に対し、ついでに自動車事業部に寄って書類を持ってくるよう依頼するとともに、その際東鉄労の幹部と会うように勧めた。

同月一一日、甲川委員長は、集まった各自動車営業所分会の活動家に対し、「配転問題、事故に対する処理など、自動車事業部の国労に対する対応は大変厳しい。今後ますます厳しくなる。これ以上犠牲者を出したくない。もうこれ以上犠牲者が出たのでは組合も参ってしまう。鉄産労に行こう。鉄産労の役員を待たせてあるのであって欲しい。」と国労脱退を打診した。これに対して、参加者は「とんでもない」と言って拒否した。

その後、癸井は己原所長から頼まれた書類を預かるために自動車事業部へ寄ったが、その際辛田課長代理から壬岡係長を紹介され、同人から書類を預かるとともに、東鉄労組織部長の乙谷を紹介され、同人と話をしている。

癸井は、その後宇都宮自動車営業所に戻って、己原所長に壬岡係長から預かった書類を渡したが、己原所長より、甲川委員長との会合や乙谷との会談について聞かれた。そのとき、己原所長は、乙谷を「大変優秀な方でしょう。」と評し、話の最後には癸井に対し「鉄産労ではだめだよ。」と述べている。

(2) 以上の一連の事実関係から、甲川委員長が国労からの脱退工作を行っていたことを、己原所長、辛田課長代理及び壬岡係長らの原告会社職制が既に知っていたことは明白である。

したがって、己原所長が庚田E吉に対して「勤務手配するから行ってくれ。」と働きかけたことや己原所長、辛田課長代理及び壬岡係長が一体となって癸井を東鉄労幹部に引き合わせたことは、いずれも甲川委員長の国労脱退工作を利用して、庚田及び癸井を、ひいては分会の組合員全員を国労から脱退させるためにされたものであることに相違ない。

また、己原所長の「鉄産労はだめだよ。」という言葉も、甲川委員長が組織的に国労脱退・東鉄労加入工作を行っていることを前提にしていることは明らかであり、会社では東鉄労しか認めないことを意味しているのである。

(二) 辛田課長代理の不当労働行為発言を使っての脱退強要

(1) 丑木K介に対する脱退強要

丑木K介は車両係であったが、昭和六二年一一月一二日の辛田課長代理の訓示は聞いていなかった。そこで己原所長は同月一三日に丑木K介を所長室に呼び出し、「今の組合にいてはだめだ。今の組合では幾ら仕事をしてもだめだから良く考えろ。」と国労脱退を勧めた。これに対し丑木K介が「今の組合にいます」と答えると、己原所長はなおも「それが真情か、二、三日良く考えてみろ、真情は他にもあるだろう。」と国労脱退を強要している。

(2) 卯波に対する脱退勧奨

己原所長は、同月一六日卯波を所長室に呼び出し、「先日の辛田代理の話は聞いたでしょう。あなたのためになるのだから、東鉄労に入った方がいい。あなたの組合は面倒を見てくれないのだから。」といって国労脱退勧奨を行った。

さらに、同月二八日には、午後九時になって卯波に電話をかけて、「組合のことだが、課長代理の話も聞いてたろうし、甲川さんも組合を辞めるようなことになったから……」、「そういうわけで卯波さんも年齢的にも年配の人だから、若い人を説得して下さい。国労の旗を降ろすように説得して下さい。」と国労からの脱退勧奨を行った。

また、己原所長は、本件の救済申立てがされたことを知るや、同年一二月八日午後〇時三九分宇都宮自動車営業所発宇都宮大学工学部行きのバス内において、同車の運転をしていた卯波に対し、「私があなたに電話したことについて、誰と誰に言ったのか。」、「私の名前を出したことはまずい。」、「あんなことを出すと証人に呼び出されるが大丈夫か。」等と言って、卯波を困惑させて、同人が証人として審問廷に出るのを妨げようとした。

(三) 辰口に対する脱退工作

(1) 原告会社による国労攻撃によって、分会の各組合員間では、「国労組合員でいれば、また転勤させられるんじゃないか、それならば国労を抜けたほうがいいかな。」という話も出てくるような状態になっていた。そのため、戊原委員長が配転された後、副分会長として分会をまとめなければならない地位にあった辰口は、事態を深刻なものとして受け止め、組合員全員のことを考えて何か手を打たなければならないと考えた。

そこで、分会では、昭和六二年一一月一九日、分会の執行体制及び組織問題を議題にした執行委員会が持たれることになった。

右執行委員会の席上、辰口は「こんなに弾圧が厳しいということだったならば……国労を抜けたらどうだろう。」という提案をした。

この辰口の提案を受けて議論がされた結果、主義主張というのができる国労で、団結してがんばろうということになった。また、辰口も、この結論に対し、自分なりにそれはがんばっていこうということになった。

(2) しかし、辰口の上記提案を知った己原所長は、翌日二〇日、辰口を所長室に呼び出し、「執行委員会の中で国労を辞めたいと発言したそうだが、それはいいことだから。そういう方向にまとめてくれ。」と国労からの脱退工作を持ちかけた。

己原所長のこのような発言に対し、辰口は「組合全体のことを考えてそういう発言をしたのに、個人的に所長室に呼ばれてそのような脱退工作を受けていると、一般組合員からは何やっているんだと疑惑を持たれるので、呼ばないでくれ。」と訴えた。にもかかわらず、己原所長は辰口に対し、それ以降数日にわたり、執ように営業所内で「その後どうなっている。」と二〇日に行った脱退工作の結果を聞き出している。

(四) 個人面談での脱退工作

(1) 午下に対する脱退勧奨

午下は、昭和六二年一一月二四日に自己申告書を提出したが、当日己原所長は不在であり、かつ翌二五日には分会の執行委員であった関係で支部の臨時大会に出席したことから、己原所長と面談したのは二六日であった。

己原所長は、午下の自己申告書の内容について一〇分から一五分程度聞いた後、「支部大会ではどういうふうに話が決まったんだ」と言って、国労の組織問題についての話を始めた。二五日の支部大会は甲川委員長の国労脱退を受けて支部全体の方向を決める大会であったから、己原所長のこの質問は「国労で行くのかそれとも違う組合で行くのか、どちらに決まったか。」ということを意味していた。これに対して、午下が「もう知っているんじゃないですか。」というと、己原所長は、「君の口から聞きたい。」と執ように迫った。そこで午下が「国労でまとまっていくことになりました。」と答えると、己原は「国労では先が見えないよ。」と言った。これを受けて、午下が「国労でも与えられた仕事は精一杯やっている。そんな中で、国労だからということで差別することはおかしい。」というと、己原所長は、「それは認めるが、回りがそうは見ない。」と言って、会社では国労にいるだけでよく思われないことを明言した。そして、なおも午下が「事故やっても、(ボーナス)カットなども(国労は)当然きますけど、向こうの組合に関してはこない。おかしいじゃないか。」と問うと、己原所長は「向こうの組合(東鉄労のこと)にいるだけで会社に貢献しているんだから。」と言って、会社では、組合の所属だけで社員に対し善し悪しの判断を加えていること、しかも東鉄労に対してだけよい評価を与えていることを、これまた明言したのであった。そして、最後に午下が、「戊原分会長の配転は、同人の家庭状況からしておかしい。自分は首になっても国労はやめない。」と決意を表明すると、己原所長は「首はないが配転はあるからな」と、配転を示唆し国労にいると不利益を受けるとしてどうかつした。

(2) 未山に対する脱退勧奨

未山は同月二七日に己原所長との面談をしたが、己原所長は、自己申告書の内容について一五分から二〇分聞きただした後、未山に対し、「名前は言えないが、三つの組合がある。仮に、A、B、Cとすると、AとBは労使共同宣言を結んでいて、Cは結んでいない。Bは労使共同宣言を結んでいるが何らCと変わりない。あなたが入っているのはCだ。Cは会社にとって大変不都合な組合である。企業だから、一企業一組合が理想だ。」と言って組合問題の話を始めた。組合名こそ出さないものの、Aが東鉄労、Bが鉄産労、Cが国労を指すことは自明であり、かつその流れの中で「一企業一組合が理想だ」ということは、「東鉄労一本化が理想だ」ということを意味していることも、これまた明白である。さらに、己原所長は未山に対し「甲川委員長が辞任したことで、支部、各分会でも変動があるでしょう。辛岡F夫君はみずから国労を脱退していって、立派です。」等と言って、暗に未山に対する脱退を指示した。そればかりか「今度新会社だから、新規採用もできる。職種も多くまたジェイアールという看板で知名度も高いし、採用希望者も多く出る。」、「農業もやっているので食べるには困らないんだな。」等と言って、暗に脱退しないのなら首にもできることをほのめかした。そして、最後に己原所長は「皆が組合を脱退したとき、一人だけ残っていると不幸になりますよ。早く決断しなさい。その場では決断できないから、うちへ帰って奥さんと相談して、早いうちに決断しなさい。」と言って、国労からの脱退を強要した。

(3) 癸井に対する同月二四日の脱退勧奨

癸井は、右同日自己申告書を提出した。その際の面談において、己原所長は手で「白」という字を書いて、「壬井君(当時分会書記長であった壬井G雄のこと)、癸木君はこうなるということだが、癸井君もどうだ。」と言って国労からの脱退勧奨を行った。この「白」とは、どこの組合にも属していない状態を意味している。

(4) 巳上O夫に対する脱退勧奨

巳上O夫は、同月二〇日、自己申告書を提出した。その際の面談で己原所長は、午下や未山の場合と同様に、「組合は一本にしなければならない。東鉄労は会社のために一生懸命働いている。会社のためには東鉄労の組合一本にしたい。国労を辞めて東鉄労に入りなさい。他に鉄産労があるが、その組合ではだめだ。」と言って脱退勧奨を行った。

(五) 申川及び酉谷に対する脱退勧奨

(1) 己原所長は、昭和六二年一〇月二九日午後五時二〇分ころ、車両室で顔を洗っていた申川に対し、「いつになったら脱退するんだ。脱退しないならおれにも考えがある。」と国労脱退を迫った。その後、酉谷が部屋に入って来ると、己原所長は申川及び酉谷の両名に対し、「あんたら国労にいて真面目に仕事をしていても何にもならないよ。東鉄労に行けば仕事なんかできなくてもいいですよ。国労の看板を下ろしてくれれば、何をしてもいい。」等と言って脱退勧奨を行った。

(2) さらに己原所長は、同年一一月二八日午後三時ころ、宇都宮自動車営業所内において、申川及び酉谷に対して「君らは年だから考えた方がよい。たかが六〇人位しかいないところならまとめられるだろう。」と言って国労からの脱退勧奨を行った。

8 庚崎助役の脱退強要

(一) 庚崎助役は、一一月二六日の午後八時三〇分ころ戌沢の茂木の自宅を訪問し、戌沢に対して単刀直入に「時間がない。」ことを強調し、「国労にいちゃだめだ。もうはっきり決めなさい。」と用件を切り出した。更に、庚崎は、「はっきりしないなら、戌沢を宇都宮へ行かせて、丑葉を茂木へ帰すぞ。」、「このままはっきりしないなら、社宅にいられないくなるぞ。」、「東京には転勤させない。(もっと不便な)水戸とか高萩の方へ転勤させる。」と具体的に不利益取扱いの内容まで指摘して戌沢をおどし、国労からの脱退を強く迫った。

(二) 庚崎は、同月二八日午後一時二〇分ころ、「二六日に行った時の返事」すなわち国労を脱退する意思を固めたかどうかを聞くために、はっきり返事をしない戌沢に対し、「一時脱退届を預かってやる、自分の好きなところへ転勤させて上げる。後の面倒は私が見るから、私の方さ一時脱退届を預けなさい。」と国労からの脱退を強く迫った。

第三  争点についての判断

一  原告会社の職制の言動の内容等

1  辛田課長代理の訓示

(一) 証拠(甲七、乙九二の2、九三の2、3、九五の2、一二二、一三六の3、一三七の2、一三八の3)及び弁論の全趣旨によれば、辛田課長代理は、原告会社からの自動車事業の分離を控えた昭和六二年一一月一二日、宇都宮自動車営業所の事務室に職員を集めて行った訓示の中で、「不当労働行為というふうに聞かれる社員がいるかもしれませんが」と前置きした上で、日本航空では労働組合が複数存在し、社員同士が対立しているため社内が混乱し経営が難しい旨の雑誌の記事を挙げながら、「労使強調でバス会社を守って行くんだ。」、「そのためには一企業一組合が望ましい。」、「皆さん、早く看板を外しなさい。」などと発言したことが認められる。

(二) 前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(甲八、乙一〇、一一、七六、九五の2)及び弁論の全趣旨によれば、当時原告会社は、自動車事業の経営の分離の作業を推進中であったところ、自動車事業の経営の現状は厳しく、原告会社は、これを打開するため、不採算路線の休廃止、運行便の削減などで業務運営の効率化を図るとともに、旅客の需要が見込まれる高速道路への乗り入れ、貸切バス事業の事業区域の拡充等、積極的な経営施策を採ることにより、経営基盤の確立を図ろうとしていたこと、これらの施策を実行するためには、社員の協力、労使関係の安定が必要であり、とりわけ貸切バス事業は勤務時間が不規則になることから、三六協定の締結が不可欠であったこと、ところが、国労は、労使協調路線を歩む東鉄労などとは異なり、国鉄の分割・民営化後も、反対運動を続け、自動車運送事業の経営の分離にも反対して、原告会社と対立関係にあり、両者間で締結されていた三六協定の再締結のための協議も整わず、昭和六二年九月末日をもって失効して、同年一〇月九日に再締結されるまでの八日間、協定のない状態が生じる事態となったこと、このような事態が生じることは、経営基盤の確立を図ろうとしていた原告会社にとって大きな打撃であり、辛田課長代理も、貸切バスの送配に非常に苦慮し、事業者としては非常に困る、三六協定を失効させるような組合では困ると考えていたこと、宇都宮自動車営業所では、原告会社の発足時以来、分会すなわち国労が社員の過半数を組織していたことが認められる。

(三) 以上の事実を踏まえて辛田課長の発言内容を考えると、「一企業一組合が望ましい。」旨の部分は東鉄労一本化が望ましいとの趣旨と、「早く看板を外しなさい。」旨の部分は、国労からの脱退を求めるとの趣旨と、それぞれ認めることができるものというべきである。

原告は、辛田課長代理は三六協定の失効について危機感を抱いていたことはない、「一企業一組合」というのは企業のあるべき姿を言ったものである、「看板を下ろせ」というのは、親方日の丸意識の払拭を言っていただけであるなどと主張するが、乙第九三号証の3、第九五号証の2、第一三六号証の3、第一三七号証の2、証人辛田H夫の証言中の右主張に沿う部分は、前記(二)の事実関係に照らすと、いずれも採用の限りではなく、他に右主張を裏付けるに足りる的確な証拠はない。

2  己原所長の言動

(一) 癸井に対する昭和六二年一一月一〇・一一日の働きかけ

(1) 前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙九二の2)及び弁論の全趣旨によれば、己原所長は、同月一〇日午前一〇時ころ、癸井を所長室に呼んで、東京へ行った帰りに自動車事業部に寄って書類を持ってくるよう依頼するとともに、「向こうの組合の方で大変優秀な方に会ってみる気はないか。」と述べたこと、癸井は、翌一一日、甲川委員長に会った後、自動車事業部に寄って壬岡係長から書類を預かったが、その際、壬岡係長から東鉄労の組織部長の乙谷を紹介されて同人と会ったこと、癸井は、その日のうちに宇都宮自動車営業所に帰り、己原所長に書類を渡したが、その際、己原所長は、甲川委員長との会合や乙谷との会話のことを尋ね、乙谷について「大変優秀な方でしょう。」と述べ、最後に「鉄産労ではだめだよ。」と述べたことが認められる。

(2) ところで、証拠(乙九、二九、九二・九三の各2)及び弁論の全趣旨によれば、甲川委員長は、同月二五日の臨時支部大会において国労からの脱退を表明し、当時支部東京自動車営業所分会分会長であった己崎D平も同月三〇日に国労脱退を表明したこと、甲川委員長は、同月二五日の脱退表明よりも前に、各分会の主だった活動家に対し、今後の対応についての協力を要請し、宇都宮自動車営業所では、支部副執行委員長庚田E吉、辰口、癸井の三名がその要請を受けたこと、このことを知った己原所長は、勤務の予定があった庚田E吉に対して、「勤務手配するから庚田君も行ってくれ。」と、甲川委員長の呼びかけに応じて東京へ行くように勧めたが、結局、分会では癸井が東京に行くことになったこと、同月一一日、甲川委員長は、参集した各分会の活動家に対し、「配転問題、事故に対する処理など、自動車事業部の国労に対する対応は大変厳しい。今後ますます厳しくなる。これ以上犠牲者を出したくない。もうこれ以上犠牲者が出たのでは組合も参ってしまう。鉄産労に行こう。鉄産労の役員を待たせてあるので会ってほしい。」と国労脱退を打診したが、参加者はこれを拒否したことが認められる。

以上の事実に照らせば、(1)の己原所長の働きかけは、甲川委員長が国労を脱退しようとしていることを知った上で、癸井に対して、国労を脱退して東鉄労に入るよう勧奨しようとしたものであることを推認するに十分というべきである。

(二) 丑木K介に対する発言

前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙一二五、証人丑木K介)及び弁論の全趣旨によれば、己原所長は、昭和六二年一一月一三日午後一時三〇分ころ、辛田課長代理の訓示を聞いていなかった丑木K介を所長室に呼び、寅葉L作助役の立会いの下で、同人に対し、辛田課長代理の話を主体に話をし、「あなたも今の組合にいてはだめだ。」、「今の組合では、幾ら真面目に働いてもだめだよ。」と述べたこと、これに対し、丑木K介が、「今の組合にいます。」と答えると、己原所長は、「それが真情が。二、三日よく考えてみろ。真情は他にもあるだろう。」と述べたことが認められる。

己原所長の右発言は、その内容に照らし、国労からの脱退を勧奨しようとしたものであることが明らかである。

(三) 卯波に対する発言

この点については、乙第一二〇号証(卯波作成の陳述書)には、国労からの脱退を勧奨するものである旨の被告の認定事実に沿う部分があるが、右部分をもってしては、右事実を認定するには不十分といわざるを得ず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。

(四) 巳上O夫に対する発言

この点については、乙第一二三号証(巳上O夫作成の陳述書)には、国労脱退、東鉄労加入を示唆するものである旨の被告の認定事実に沿う部分があるが、右部分をもってしては、右事実を認定するには不十分といわざるを得ず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。

(五) 辰口に対する発言

前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙八九の2、一三八の3)及び弁論の全趣旨によれば、己原所長は、昭和六二年一一月二〇日、辰口を所長室に呼び、「執行委員会の中で国労を辞めたいと発言したそうだが、それはいいことだから、そういう方向にまとめてくれ。」と述べたこと、なお、辰口は、前日の分会執行委員会の席上、「こんなに弾圧が厳しいということだったならば、国労を抜けたらどうだろう。」と提案していたことが認められる。

己原所長の右発言は、その内容に照らし、国労からの脱退を勧奨しようとしたものであることが明らかである。

(六) 癸井に対する発言

前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙九二の2)及び弁論の全趣旨によれば、癸井は、昭和六二年一一月二四日に自己申告書を提出したが、その際の面談で己原所長は、手で「白」という字を書いて、「こういうふうにならないか。」と述べたこと、なお、原告会社の社員間では、この「白」(パイパン)とは、どこの組合にも属していない状態を意味する言葉として用いられていることが認められる。

己原所長の右発言は、その内容に加えて、癸井に対して従前にも前記(一)認定の働きかけがあったこと等に照らすと、国労からの脱退を勧奨しようとしたものであることが明らかである。

(七) 午下に対する発言

前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙八七・八八の各2)及び弁論の全趣旨によれば、午下は、昭和六二年一一月二四日に自己申告書を提出したが、当日己原所長は不在であり、翌二五日には支部の臨時大会に出席しなければならなかったことから、二六日に己原と面談したこと、その際、両名間で、己原所長「支部大会ではどういうふうに話が決ったんだ。」、午下「国労でまとまっていくことになりました。」、己原所長「国労では先が見えないよ。」、午下「国労でも与えられた仕事は精一杯やっている。そんな中で、国労だからということで差別することはおかしい。」、己原所長「それは認めるが回りがそうは見ない。」、午下「事故やっても、(ボーナス)カットなども(国労は)当然くるけど、向こうの組合に関してはこない、おかしいじゃないか。」、己原所長「向こうの組合にいるだけで会社に貢献しているんだから。」、午下「戊原分会長の配転はおかしい。」、「自分は首になっても国労は辞めない。」、己原所長「首はないが転勤はあるからな。」というような会話が交わされたことが認められる。

右の一連の会話における己原所長の発言は、その内容に照らし、国労に所属すれば今後も差別や不利益を受けることを示し、もって国労を脱退するよう示唆したものであることが明らかである。

(八) 未山に対する発言

前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙九〇の2)及び弁論の全趣旨によれば、未山は、昭和六二年一一月二七日午前一〇時三〇分ころ、己原所長と自己申告書について面談したこと、その際己原所長は、「名前は言えないが、三つの組合がある。仮にA、B、Cとすると、AとBは労使共同宣言を結んでいて、Cは全然結んでいない。Bは労使共同宣言を結んでいるが何らCと変わりない。あなたが入っているのはCだ。Cは会社にとって大変不都合な組合である。」、「企業だから、一企業一組合が理想だ。」「甲川委員長が辞任したことで、支部、各分会でも変動があるでしょう。」、「辛岡君は自分から国労を脱退していって、立派だ。」、「今度新会社だから、新規採用もできる。職種も多くまたジェイアールという看板で知名度も高いし、採用希望者も多く出る。」、「農業もやっているので食べるには困らないんだな。」「皆が組合を脱退したとき、一人だけ残っていると不幸になりますよ。」、「早く決断しなさい。その場では決断できないから、うちへ帰って奥さんとよく相談して、早いうちに決断しなさい。」などと述べたこと、Aは東鉄労、Bは鉄産労、Cは国労を指すものであることが認められる。

己原所長の右発言は、その内容に照らし、全体として、国労に所属し続ければ不利益を受けることになることを示し、もって国労から脱退し東鉄労へ加入することを示唆したものであることが明らかである。

(九) 申川及び酉谷に対する発言

この点については、乙第一二二号証(申川作成の陳述書)には、国労脱退、東鉄労加入を示唆するものである旨の被告の認定事実に沿う部分があるが、右部分をもってしては、右事実を認定するには不十分といわざるを得ず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。

3  庚崎助役の発言

前記第二の一の争いのない事実等の一部、証拠(乙九〇の3、一二四)及び弁論の全趣旨によれば、庚崎助役は、昭和六二年一一月二六日午後八時三〇分ころ、栃木県茂木町所在の自宅へ帰る途中、同町所在の戌沢の社宅を訪問し、同人に対し、「時間がない。」、「国労にいちゃだめだよ。はっきり決めなさい。」、「はっきりしないなら、戌沢を宇都宮へ行かせて、丑葉を茂木さ帰す。」、「東京には行かせない。水戸か高萩の方へ転勤させる。」、「このままはっきりしないなら、社宅にいられなくなるぞ。」、「もう少し考えてみろ。次の乗務の待ち時間のときに返事を聞くから。」と述べたこと、庚崎助役は、同月二八日午後一時二〇分ころ、戌沢を所長室に呼び、「本当にもう時間がないから、もうはっきりしなくちゃだめだよ。」、「自分の好きなところへ転勤させてやる。後の面倒は私が見るから、私の方さ一時脱退届を預けなさい。」と述べたことが認められる。

庚崎助役の右発言は、その内容に照らし、国労から脱退しなければ不利益な異動があることを示唆し、国労からの脱退を勧奨したものであることが明らかである。

4 以上によれば、当時、原告会社の各自動車営業所の要員の運用、管理、社員の給与、任免等の業務を担当していた辛田課長代理の前記1の発言は、分会の組合員に対し、国労からの脱退、東鉄労への加入を勧奨する、労働組合法七条三号の支配介入行為として、原告会社の不当労働行為を構成するものというべきである。

また、己原所長についての前記2(三)、(四)、(九)の言動(発言)を認めるには不十分であるが、(一)、(二)、(五)ないし(八)の言動(発言)は、宇都宮自動車営業所の所業務全般の管理及び運営を職務内容とする所長がした、分会の組合員に対して国労からの脱退又は東鉄労への加入を勧推奨するなどの、労働組合法七条三号の支配介入行為として、庚崎助役の前記3の発言は、同営業所の所長の補佐又は代理を職務内容とする助役がした、同組合員に対して国労からの脱退を勧奨するなどの、前同号の支配介入行為として、いずれも、原告会社の不当労働行為を構成するものというべきである。

二  結論

以上の次第で、本件命令には事実認定に一部誤りがあるが、本件命令が原告について労働組合法七条三号に該当する不当労働行為責任を認めたことに違法はないものというべきである。

よって、原告会社の本訴請求は理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福岡右武 裁判官飯島健太郎 裁判官西理香)

別紙一、二〈省略〉

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